水天宮

水天宮の由来

東都名所芝赤羽根増上寺  二代 歌川広重 筆
東都名所芝赤羽根増上寺  二代 歌川広重 筆
右側が有馬藩江戸上屋敷と火の見櫓。左が増上寺。
(国立国会図書館所蔵)

天御中主大神あめのみなかぬしのおおかみのご神徳を受けた有馬家

 赤松家を祖とする摂津有馬家は、応仁の乱の引き金となった嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱の後に、有馬の郷(現神戸市北区)に落ち延びて隠れ住み、その土地から姓を取って有馬と名乗りました。
 後年、太閤秀吉に見出され、中央に戻されます。その幸運を授けて下さった有間(有馬)神社のご祭神である天御中主大神のご神徳を代々忘れぬよう、有間神社の社紋である三つ巴を有馬家の家紋としました。
 現在でも、当主にのみ三つ巴の紋を付けることが許されております。

久留米藩へ入封、水天宮社殿を造営

 

 大名家としての有馬家は、元和6(1620)年に久留米藩(現福岡県久留米市)二十一万石を拝領しました。
 第二代藩主有馬忠頼ただより公は、慶安3(1650)年、当時尼御前大明神と尊称されていた水天宮に対して、城下の筑後川に臨む広大な土地を寄進し、社殿を造営しました。

水天宮を江戸へ勧請かんじょう

 

 敬神の念は代々の当主に受け継がれ、文政元(1818)年、第九代藩主有馬頼則よりのり公は参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるように、芝赤羽根橋の江戸上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請致しました。

 爾来、水天宮は当主と共にあり、明治4(1872)年には青山、翌5年には日本橋蛎殻町へと移転致しました。関東大震災(大正12年)をはじめ、数多の苦難を乗り越え、現在に至っております。

明治年間(水天宮所蔵)
明治年間(水天宮所蔵)

「情け有馬の水天宮」 ~深い温情~

 文政元(1818)年に久留米藩有馬家上屋敷内に祀られた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶たちませんでした。
 時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。
 そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「なさけありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となりました。

明治43年11月5日「六十年目 戌の日水天宮雑踏實況」とあり、警備する警察官の姿が見えます。
明治43年11月5日「六十年目 戌の日水天宮雑踏實況」とあり、警備する警察官の姿が見えます。(水天宮所蔵)

「湯も水も火の見も有馬の名が高し」~日本一と称された火の見櫓~

 幕府により大名火消しを命ぜられた第八代藩主・有馬頼貴よりたか公は当時としては異例の高さである三丈(約9m)にも及ぶ火の見櫓を組みました。
 有馬温泉・水天宮・火の見櫓を掛けて「湯も水も火の見も有馬の名が高し」という言葉がうまれました。